東京・蒲田駅前に現れたのは、驚くほどに地味な……というより、普通のサラリーマン然とした藤森(仮名)の姿だった。
埼玉県西部の出身で、中学卒業の頃には池袋近辺でカラーギャングの一員として少しばかり名を馳せた藤森も30歳。たしかに落ち着いても良い、落ちつくべき年齢になった。
「お久しぶりです。仕事? まあ相変わらずですね」
そんな藤森だが、数年前に社会問題となったオレオレ詐欺に関わっていた。多くの老人から金を騙し取り、逮捕歴もある。いまでこそ手口が知られ、オレオレ詐欺は不良たちの間でも流行らないビジネスとなった。
では、彼らはその後、どうしているのだろうか。筆者が見てきた何人かの人物、その現実の姿を数回に分けてお伝えしていこうと思う。
グレービジネスで大金を手にした若者
——筆者が藤森と初めて出会ったのは、私が20代半ばで彼が20歳そこそこの頃。六本木のクラブ取材で女性客のスナップを撮っていたときに、酔っぱらって絡んできた5、6人の中の1人が藤森だった。
アルマーニやらサンローランのロゴがデカデカと入った黒いTシャツに、ドルチェ&ガッバーナの白いパンツ、アクセサリーはクロムハーツ。肌は焼けて、金髪の短髪。藤森たちのスタイルは当時、金融系ファッションとも呼ばれていて、セカンドバッグを小脇に抱えながら、中古で買ったセルシオやシーマに乗り込むのが彼らのステイタスだ。
当時、藤森らはあるビジネスで大成功を収めていて、独身にも関わらず、東京郊外に3LDKのマンションまで所有していた。格好だけでなく、飲み食いに使う金額だって毎回万単位。
「仕事っすか? 不動産つーか、リフォーム関係っす。いやあ、儲りましたけど、もうダメっすね。俺、仲間と芸能事務所立ち上げるんで、こうやって夜の街で人脈作ってるんすよ」
床下換気扇を老人に売る仕事
藤森ががっぽり儲けた仕事。それは当時、問題視され、報道でも大きく取り上げられた「床下換気扇」を各家庭に売り込んで歩く仕事だった。
一人暮らしや老人だけの世帯と思われる一軒家を訪ねて周り、床下に湿気が溜まっているだの、このままでは家が崩れるだの、家の資産価値がゼロになるなど適当なことを言って、一台十数万円もする換気扇の設置契約を取る。
不安にかられた老人は格好の餌食となり、中には十数台もの換気扇を設置するハメになった被害者もいた。
「換気扇の効果なんてわかりませんけどね、まあ老人たちも安心するし、俺たちは儲るしウィンウィンでしょ」
抜群の営業成績で年収2000万円以上を得ると、家も車も、愛する妻と子供も手に入れた。それって詐欺じゃん——冗談っぽく言った筆者の言葉に、藤森はムキになって反論する。
「寂しい老人の話し相手にもなってる。キャバ嬢と変わらない、サービス業みたいなもんですよ。老人も納得して買っているんだから、詐欺ってことはないでしょう!」
藤森につきまとう悪い噂
藤森はその後、本当に芸能プロダクションを立ち上げ、代表取締役に就任。一時期はモデル(といっても読者モデルレベル)を十数人抱えて、雑誌やラジオ局に営業する日々を送っていたが、評判は芳しくなかった。
旧知の中堅プロダクション関係者からは「営業か恫喝かわからない。まるでチンピラ」と早々に素性を見抜かれ、弱小出版社の編集者にカネやオンナを抱かせて仕事を取る営業方法への悪評も、業界中に瞬く間に流れた。
かくして藤森とは数年音信不通になったが、噂は絶えず流れて来た。JKカフェをやって女子高生・中学生に売春させている、危険ドラッグの卸売りをやっている。
そして、オレオレ詐欺の事務所を立ち上げた——。
誰かを不幸にすることでしか稼げない
嫁も子供もいた藤森が必死だった事は理解できなくもない。だが、どうしても真っ当な仕事に就けない。真っ当な仕事をしようとしても、どこかで何かが狂ってしまう。かつて藤森は「ウィンウィン」といって自身を正当化しようとしたが、結局誰かを不幸にして、誰かから搾取してしか生きる事が出来ない。どんなに着飾ってみようと、それが藤森の真実の姿だったのだ。
その後、何らかの理由で検挙されたとの噂がたったかと思うと、藤森のマンションが売りに出されている事も発覚。嫁子供はもちろん、藤森についての情報も、噂を含めてプッツリ途絶えたのだ。
また、藤森が知人数人からそれぞれ百万単位でカネを集めていた事も判明。投資や起業、そんな言葉をチラつかせて、近しい仲間たちから集めたカネは一千万近く。絶対に儲ると乗せられた挙げ句サラ金に手を出した者もいて、藤森はお尋ね者として手配されたが、彼の居場所を、誰も突き止める事は出来なかった。
ヤンキー、ギャング、そして詐欺師という生き方において、藤森は「仲間」の大切さを常に口にしていた。彼が気づかないフリをしていようとも、やはり「騙し」や「搾取」が頼りの世界に身を置いてるが故に、絶対に裏切らない仲間だけが財産だったはずだ。
しかし、ついに藤森は、唯一の財産までも投げ捨て、仲間の前から消えたのである。
詐欺師として生きた男の現在
——もうほとんど藤森の存在など忘れかけていた2016年はじめ。見慣れぬアドレスから送られてきたメールを見て、思わず声をあげた。藤森からのメールだった。
ご無沙汰しております、と始まるメールの内容は「パンフレットの制作をしてくれる人を探している」というもので、出来ればそれを筆者にお願いしたいとのこと。末尾には法人と思われる株式会社名に、藤森の名前には営業本部係長という肩書きも確認出来る。法人名でネット検索すると、どうやら葬儀関係の業務を行う会社らしいが、判然としない。
とにかく会って欲しい、とせがまれ赴いたのが、冒頭の蒲田駅である。
適当な居酒屋を見つけて入ると、乾杯をする間もなく、ビッシリと文字が印刷されたA4用紙を取り出し「ビジネス」とやらの話を始める。
「色々あったんですけど、家族もバラバラになっちゃって、一から出直そうと、大阪で頑張ってるんですよ。いま、もの凄い調子が良くて、近々東京にも営業所を出します。僕は営業所長としてこっちに戻ってくるつもりです」
お通しが出て来ても、飲み物すら頼まず延々と仕事の話をする藤森。
超高齢化社会を迎える日本で、葬儀や墓の事で悩む老人をターゲットとした商売は絶対に需要がある。月々1万円強の掛け金さえ支払えば、万が一の際には十数万円から葬儀が出来て、永代供養の墓の手配まで行う。流行になりつつある合同埋葬や散骨、そういった事も手掛けている……。
しびれを切らした私が、話を遮り強引に注文を取って、やっとの事でビールジョッキに口を付けたのは、居酒屋に入ってから30分以上も経ってからだった。
ギャラの曖昧な制作案件
「それで、パンフレットお願い出来ないですか? ギャラは……一応、出来を見てからということで、お客さんの反応良ければ、一部あたりの歩合にもできます」
ほらきた、と嘆息する筆者。じつは以前、押し切られる形で、彼の芸能プロダクション所属のモデルたちの宣材(宣伝材料)作成を引き受けた事があった。
撮影スタジオやカメラマンの手配、印刷までを任され無事に宣材は完成したが、ギャラは一向に振り込まれず、催促すると恫喝、泣き落としを繰り返し、数ヶ月後に約束の十分の一程度のギャラが支払われた。藤森はすでに忘れているだろうが、筆者はしっかり覚えていたのだ。
新たな被害者を求めて……
お互いにジョッキ数杯を飲み終えても、しらけ頭でシラフの筆者。酔いの回った藤森は、予想した通りの発言をぶつけてきた。
「老人ビジネスって、中間マージンわかりにくいし、アガリがデカいっすわ。とにかく、客が死ぬまでにガッツリ関係作って、葬儀代奮発してとか遺書を書かせたりしてね。客の孫になりきって毎日頑張ってますよ」
依頼の件を後日メールで断ると、返信すら来なかった。そして夏頃、藤森の会社への苦情が、消費者生活センターに多く寄せられている事を知る。
居酒屋を出るとき、筆者は藤森の革靴の先が、ベロっと剥がれているのを見た。シワの目立つシャツの襟は、薄暗い灯りの下でもわかるほど垢で汚れていた。
死に物狂いで食うための手段を模索している藤森。しかし、一度染み付いた反社会的な感覚という垢は、どんなに強くこすっても、未だしつこくこびりついたまま。新たな被害者を求めて、藤森の流浪は続く……である。
(取材・文/北宮マサル)