現代のジュライホテル・楽宮大旅社—バンコク・ヤワラートにある1泊100バーツのゲストハウス「シャドウイン」ここに泊まればそれはすなわち破滅への入り口だ

かつてのタイ観光の目玉、それはドラッグ・売春の聖地としてバックパッカー達のたまり場となっていたジュライホテル楽宮大旅社だった。沢木耕太郎と一線を画す不良旅行者たちにとってはもはや伝説となっている場所である。

しかし、血管をパンパンに膨らませて今日もみんなで仲良くトリップ、暇さえあれば娼婦と一発という旅行スタイルは遠い昔の話。

2016年に訪れた今はなきジュライホテル。目の前に広がる7月22日ロータリーも今では子供たちの遊び場だ

そんな時代の旅行者達が老い、フラッシュバックに苦しんでいる今、タイ観光といえば象にまたがり両手を合わせるエスニック系女子やオイルマッサージでデトックスしているアラサー女子。貧乏旅行者たちのたまり場もカオサン通りへと移り、日夜健康そうな若者たちが目をキラキラさせながらFacebookで国際交流を図っている。

そんな光景を目にしては、アレルギー反応で心臓発作を起こしているアングラ愛好家もさぞかし多いことだろう。

7月22日ロータリーにかろうじて残る売春婦。気合が入っていない

筆者もそんなアングラ愛好家の1人。谷恒生の文庫本を握りしめ、当時のリアルな話をシャブの毒素も抜けきったおじさん達から聞いては涙を堪えきれずに嗚咽する日々を送っている。なんでもジュライホテルが閉館した1995年当時、私はママのおっぱいを卒業したばかりのお尻の青い2才児。本気を出せば行けたかも分からないが、ママがマッドサイエンティストでもない限り、私はジュライホテルなんて知る由もない。あと30年早く生まれていれば、今頃、バブルで儲けた金で細々とぶっかけ飯でも食べていられたろうに……。

楽宮大旅社(楽宮旅社、バンコク楽宮ホテル)。中に入ると工事をしていた。労働者のアパートに改装しているらしい

シャドウイン、訳して「影の宿」……!

そんなことを考えている最中、インターネットで異彩を放つ何やら怪しげなゲストハウスを発見した。その名も「シャドウイン」。直訳すると「影の宿」……。一体誰が何の意図で名付けたのか、そのネーミングセンスは逆に称賛に値する。料金は1泊なんと100バーツ、日本円にして約300円。以前中国は桂林の1泊15元(240円)の牢獄を目の当りにしたことがあるが、値段的にはそれに匹敵する。おそらくバンコク全体で見たら最安値ではないだろうか。ネットにアップされている写真を見ると、構図、光加減など最善を尽くしているにも関わらず、隠し切れない暗い雰囲気。おまけにベランダには自殺防止の鉄格子が張り巡らされている! こんな魅力的な宿泊施設、間違いなくトリップアドバイザーは見逃しているはず。私は迷わず「シャドウイン」を目指し、ヤワラ―通りを駆け抜けた。

右奥に光るのがシャドウイン。どこか違う世界への入り口のようだ

※一泊15元の旅社

中国の街には基本的にゴミ箱というものがなく、概念もない。そのため街の至る所に自然発生的にゴミ溜めができるが、この旅社はまさにその場所に建てられており、エントランスにまで生ゴミが侵入しているという有様だった。それで240円はちと高い。

経営者はパキスタン人

シャドウインはヤワラー通りを南下したsongwat通りの川の畔にひっそりとあった。いくら場末のゲストハウスとはいえ、看板くらいはあるだろうとウロウロするものの、反社会の象徴である落書きしか見当たらない。

地図の上ではまさにここが宿への入り口なのだが、到底ホテルへのアプローチには思えない。横ではタンクトップ姿でハンマーを振りかざし、ビルを叩き割るオヤジ。そんなファンキーな男に物腰低く聞いてみた。

「あのー、シャドウインはどこでしょうか?」
「ここだよ……」

そう言ってオヤジが指をさしたのは、窓ガラスには全面スモークが張られ外壁は剥がれ落ち、悠久の年月を経た雑居ビル。深夜の西成で似たような光景を何度も見たような気がする。「潰れてしまったのね……そりゃそうか」。そうつぶやきながら念のためドアを押してみると、スッと扉は開き奥からはヌッとイスラム系の女性が登場した。ペタペタと裸足で近づいてきた彼女はパキスタンからやってきたという。事務所らしき部屋には床で寝転がりながらナン(カレーは付けていなかった)を貪るこちらもパキスタンの人々。あれ、あっちの人達ってこんなに目つきが悪かったっけ……。好奇心よりも恐怖が勝り、詳しくは聞けなかったけれどたぶんみんな色々あったんだろうな。

シャドウインのロビー

1泊100バーツのドミトリーへ

パキスタン人に連れられ4Fのドミトリーへ。料金を確認するとやはり1泊100バーツというのは間違いではないようだ。「安いですね」という世間話への入り口は何故か無視された……。途中バスルームがチラッと見えその光景にゾッとしたがなんとか部屋に到着。

2段ベッドが3つ並べられた空間は妙に開放的というか砂ボコリが吹き荒すぶ世紀末の雰囲気。「自由に使っていいよ」と言われたロッカーを見ると、3000回くらい殴られたような跡があった。手を真っ赤に染めながら狂ったように拳を振りかざす光景が思い浮かぶ。シャツを干そうとベランダへ出ると床には何やら黒い塊。それはよく見ると鳥(おそらくハト)の死体……!もはや虫も寄り付かないほどに朽ち果てている。次から次へと襲い掛かる難敵にため息をつきながらベッドに腰かけると、となりのシングルルームからなにやら物音が……。

アッ! アッー! ウウッ。 フフッ

性に開放的な欧米人が多く集まる東南アジアの安宿では、毎晩激しめのあえぎ声が街中に木霊する。カオサンあたりのゲストハウスならよくあることだが、聞こえてくる声はセックスのそれとはまるで違う様相だ。そう、ここはチャイナタウン。ドアの隙間からそっと中を覗くと、1人の白人男がベッドに座りながらうなだれていた。そしてときより声を荒げては部屋をグルグルと歩き回るのだ。しばらくその様子を眺めているとようやく私の存在に気付いたようで、ドアの隙間越しに目が合った。

「Do you have a heroin?」

精いっぱいの微笑みで軽いジョークを飛ばす。

「ヘロインに “a” は付かねえよ……」
「ハハハ、バレちまったか。お願いだから誰にも言わないでくれよ」

そんな答えを待っていたものだからその場で凍り付き、無言で部屋を後にした。それから数時間たった夜、部屋に戻るとそいつは椅子に座ってうなだれていた。気付かれないように私は荷物をまとめ、件のシャワールームをパシャリとカメラに収めてから逃げるようにチェックアウトした。

もはや何もかもが怖い
だたっぴろいトイレ兼シャワールーム。ここなら20人くらいまとめて練炭で……
こちらは嬉しいバスタブ付き

朝起きると知らないうちにヘロイン中毒者に……。そんなことが現実に起きてしまいそうな素敵なゲストハウスシャドウイン。当時のジュライホテルと比べるといかほどのモノなのかは分からない。しかし安心安全の日本人宿でぬくぬくとホットシャワーを浴びている日本の若者達よ。「これだからゆとりは」と言われるのが嫌だったら、今すぐシャドウインにチェックインしてみよう。まあモロゆとり世代のボクは近くのイマドキなゲストハウスに即避難したんだけど。

文・写真/國友公司